絶望の傘を差して歩くバンド
syrup16g
絶望という傘を差し続けるバンド
どんなに太陽が降り注いだとしても
雨がいつ降ってもいいようにと
傘を差し続ける。
……雨が降ったら、
ほらね?いったでしょ
知ってたんだから。
と 言えるように。
そんなバンドだなと思う。
でも彼らは 歩く。
不器用でも、転んでも、
晴れの日に 傘を差して 笑われても
歩きつづける。
そんなバンドな気がするのです。
わたしがこのバンドを聴き続けた理由
2004年リリースアルバムdelaydedをはじめて聴いた時
わたしは単純に、
この人たちはこの先、どう変わっていくんだろう
と思ったから。
どこまでいっても暗闇から抜け出せられないまま終わってしまう曲たちを聴いて単純にそう思いました。
そして2016年
変わっていないなぁ
という結論にいたりました
(変わったと感じることはありますが、ここでは割愛します。
また別の記事にて。)
ふと話を外しますが、
好きなバンドに対して
『変わらないでほしい』
というファン心理がよくありますが、
そういう感情の一種は、とても残酷な心理であるということに気付かされたのでした。
どんな風に変わっていくのかを知りたくて聴き続けていたのに、
気付いたら、変わらないsyrup16gに安堵を覚えていた自分に、少しぞっとしたのでした。
話を戻して
彼らのどこに惹かれたのか。
それは、どこまでも音楽に対して愚直なところです。
同時に自分の生に対しても愚直過ぎるところ。
『生きること』と『歌うこと』がこんなにも深くつながったバンドを私は他に知りません。
あとは、人の心を掻き乱すようなメロディ。
それは、どこまでも広がっていくかのような澄んだメロディであったり、もしくは人の心を微かに不安にさせたり焦燥させたりする不気味なメロディであったり……。
いずれにしても彼らのメロディには、人の心を掻き乱す力があるなぁと感じました。
Reborn : 最初のアコギのメロディから美しい。どこまでも広がる澄んだ晴天のような光景が浮かぶ。コンポではなくヘッドホンで聴いてほしい。
ex.人間: 歯切れの悪いギターの音と人間のため息のような不気味なコーラスは、聴く人を不穏な気持ちにさせる。
抜け出せない闇の中で、自分を見出せずに、もがき苦しむような歌が多くあるなと思いますが、そんな中だからこそ光のある歌は眩しくて美しいと感じる。
歌の根底には深い闇があるのに、ところどころで出会うあまりに美しいメロディに思わずドギッとさせられます。
My song : 「ずっと一緒にいたい」と歌うのではなく 「そばにいれる時だけ そばにいたい」と歌うのがsyrup
願いが叶うことや喜び、幸せをいくら歌っていても、どこか 諦め や 怯えがそこにはある。
それはもうこの人の生来からのものなんだなと思いながらも、彼の言ってる事は紛れもない事実。
ハピネス: 諦め があるけれど それら全てを受け入れて、ハピネスと歌う
夢: 手にした喜びよりも、失うかもしれないという恐怖心が前に出てしまう
夢 という曲は とくにそれが表れた、異常さをもった歌だなと思います。
大丈夫かな……。 この人たち……。
と、まるでワレモノを扱うときのようなハラハラさ や
ハレモノを触るかのような気持ちで聴いていたsyrupに対して完全に立場が逆転した曲がありました。
I.N.M
人の生き様を心配してる場合ではなかった。もしかして、日常を妥協して生きていくほとんどの人たち(私)の方が、自分の弱さに甘え浸っているのではないか……。
本当に強い人っていうのは、彼らのように、どんな状況であれ自分でいることを諦めない(諦めることが出来ない)人間のことを言うんじゃないかと感じました。
パープルムカデだってそう。
はじめから負けるような歌を歌っているけど、(下敷きになるという言葉)そもそも自分がいるべき場所なのかどうかすらあやしい。それでも自分がいたいと願う場所に居続けるということが強い。(相当な弱音は吐いているけれど……。)
闇
自己喪失
敗北
弱音
堕落
syrupにはそんな言葉ばかりが浮かぶけれど
彼らをただ単に
どうしようもない、弱音を吐くだけのバンドとして聴くのは違う。
こうした事の中には
確かな
図太さ や 強さ
があると感じました。
だって彼らは
「歌っている」のだから。
そしてなにより、syrupを聴くと
生きること
歌うこと
に対する
異様な執念 のようなものを感じます。
12月14日zepp tokyo
セミファイナルに参戦するので
また記録します。
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